Ⅱ-10、総合開発計画の策定

計画県政のスタート

 敗戦後の経済復興、生活再建を目指す戦後日本社会の指針となる国土総合開発法が昭和25(1950)年に施行されました。これに呼応して富山県では、全国の都道府県に先駆けて26年6月、県条例による県総合開発審議会を立ち上げ、総合開発計画の策定に取り組みます。

国の指針づくりに携わった山越道三を招き、指導を受けました。審議会は7委員会と30専門部会で構成し、360人に及ぶ各界各層の委員が9か月にわたって会合や現地調査を行い、県政各分野の目標や計画を盛り込んだ全7巻、4000ページにわたる報告書が作成されます。高辻知事の2期目がスタートした27年3月に刊行されました。

人口所得計画を頂点にすえ、すべての計画がそこに帰一するように構成されています。年限を定めずに到達目標を掲げる基本計画、おおむね10年の昭和35年を目標とする中期計画、翌年度27年、28年を目標にする短期計画の3段階に分けて作られました。

第1回審議会であいさつした高辻知事は、大小20数本の河川が注入している自然条件が富山県の経済社会の一切の基盤をなしており、治山治水、発電、かんがい、工業用水、飲料用水、内水面水産等を含めた総合的な計画が県政の根幹をなす、と目標を掲げ「特に留意しましたのは、真に子々孫々に伝え得るような県政百年の大計を樹立する」ことだと述べています。

総合開発計画には、立山黒部アルペンルート建設の基になった立山山岳地帯の開発計画が盛り込まれています。教育計画が含まれたのも特徴の一つで、知育偏重を反省し、産業提携の重視が打ち出されました。後に高度経済成長期に向かって労働力を求める産業界の要請に応えた「七・三教育」の源流となりました。

サンフランシスコ講和条約が発効し、占領下から独立国としての主権を回復するタイミングで策定された総合開発計画は、高辻県政の大きな目玉でした。計画に基づき、目標に向かって予算編成し、効果や達成度を検証し、修正しながらまた新たな計画づくりに取り組むという計画県政はこの後、歴代の知事に引き継がれていきます。

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