計画県政のスタート
舘哲二富山県知事の公職追放から約1年の空白を経て昭和23(1948)年11月、2代目公選知事に高辻武邦が選ばれます。昭和20年代を担った2期8年の高辻県政は、連合軍の占領期から講和条約の締結による国家の主権回復を経て、自民党と社会党の保革二大政党による「55年体制」へと向かう時期にあたります。終戦直後の混乱は脱したものの、困難な課題に次々と直面しながら戦後体制が固まっていく時代です。
吉田茂の長期政権と重なるこの期間、日本政治に多大な影響を及ぼしたのは、占領政策の転換でした。東西冷戦が深刻化し、朝鮮戦争が勃発する中で、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)内の主導権争いの結果、非軍事化による民主化路線が後退し、再軍備と日本の経済的自立へと急旋回していきました。軍人や軍国主義者、戦争指導者たちを対象にしていた公職追放が解除され、代わって共産主義者が追放されました。占領政策のスタンスは左から右へ180度転換したのです。
27年の総選挙で鳩山一郎や石橋湛山などの追放解除組が続々と国政に復帰してきました。富山1区でも松岡松平、2区では松村謙三、河合良成が議席を得ています。この後、30年の総選挙に2区で当選する正力松太郎も追放解除組です。公職追放という戦後政治の大きな障壁を経て、昭和30年代、40年代を支える政治リーダーの顔ぶれが固まっていきます。
保守勢力は、官僚出身者中心の自由党・吉田茂と、鳩山一郎を支えて民主党を結成した党人派グループの対立が尖鋭化しました。吉田内閣総辞職、鳩山政権の誕生、保守合同へと進みます。
講和条約をめぐる論争、再軍備への批判を背景に、社会党左派が勢力を拡大していきました。富山1区で28年に三鍋義三が議席を獲得、2区では33年に佐野憲治が当選します。その後社会党は議席を維持し、富山1、2区とも自民2、社会1の55年体制の勢力図が固定されていきます。富山1区は有力な保守4人が当落を繰り返すシーソーゲーム、2区の保守は実力派が安定して議席を維持する図式となり、40年代まで続く富山県政界の構図が形成されていきました。
昭和20年代の富山県政は、電力再編と県営電力の復元問題に多大なエネルギーを費やしました。戦後の深刻な電力不足を受け、日本発送電に国営化されていた電力の再編が国政の大きなテーマとして浮上します。豊富な水資源に支えられた「電力大国」として産業を発展させてきた水力発電の地元への復元は、富山県にとって生命線ともいえる重要課題でした。県を挙げての要望活動を続けましたが、黒部川や庄川など主要河川の水力発電は関西電力に帰属することで決着しました。富山県にとって理不尽なこの枠組みは現在に至るまで続いています。
この時期の県政、市町村政に多大なインパクトを与えたのが市町村合併の進展です。行政の効率化を目指して強力に進められ、27年に212あった富山県の市町村は、36年には40に集約されました。その過程で、各地で賛否入り乱れた住民運動や住民投票が行われました。地区が分断されたり、過激な抗議行動が行われるケースもありました。合併のたびに県議、市町村議の定数、選挙区割りが変更になり、地方議員は対応を余儀なくされました。
高辻県政で特筆されるのは、行政の指針を示す総合計画の策定です。全国の都道府県に先駆けて取り組み、その後の歴代知事に引き継がれて富山県行政の特徴となる計画県政のスタートでした。
中央政界で保守合同が成立した翌年の昭和31年、自民党富山県連が発足します。その直後の知事選で、自民党が公認した候補者を破って吉田実知事が誕生しました。劇的な幕開けで昭和30年代の県政が始まります。


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