自身の体験が貴重な戦争の記録
1945(昭和20)年8月2日未明、米軍の焼夷弾攻撃を受け、富山市は一面火の海と化しました。飛来した爆撃機B29は174機、投下した焼夷弾が49万9950発。けた違いの大規模な爆撃によって目標エリアの市街地の破壊率は99.5%に達し、死者が2722人に及ぶ、まさに大空襲でした。この空襲の実像を明らかにしたのが中山伊佐男さんです。中山さんは疎開していた富山の空襲で母と妹を失い、抱き続けた無念の思いから米軍資料を解読しました。被災者として、研究者として、富山大空襲の正しい記録を伝える活動を続けてきた中山さんの足跡について、元新聞記者で取材を通じて交流してきた立教大大学院の鶴木義直と富山県政研究会の木村聡が語り合いました。

木村 中山さんは1929(昭和4)年10月、東京の生まれです。両親は富山県の出身で江戸川区小岩に住んでおり、旧制中学3年だった15歳の1945年3月10日未明、東京大空襲に遭遇します。
鶴木 東京大空襲は米軍の空襲史上、大きな転換点となった攻撃です。それまでは軍事施設や工場などの目標に向かって高高度から爆弾を落とす「精密爆撃」が中心でしたが、思ったほど成果が上がらなかったため、低空から焼夷弾を大量に落として木造家屋のまちを焼き尽くす「無差別爆撃」に転換しました。この作戦を指揮した司令官がカーチス・E・ルメイで、第1弾が東京大空襲だったのです。2時間余りの大規模な焼夷弾攻撃を行い、約10万人が亡くなっています。
木村 焼夷弾による空襲は、東京から始まったのですね。焼夷弾攻撃を受けた地方の中小都市は、富山を含めて57か所に及びます。東京大空襲に際して米軍は関東大震災の火災記録を詳細に検討しており、震災後も火災に弱く、燃えやすい下町のエリアを選んで空襲しました。そのことも後に、米軍の資料から明らかになっています。
鶴木 米軍は日本本土への上陸作戦を検討していましたが、ルメイは「航空部隊だけで日本を降伏させる」と豪語しています。最も効果的な空襲の方法を研究していたわけです。
▽疎開した富山で空襲に遭う
鶴木 そのころ中山さんは学徒動員で勤労に従事していたようです。
木村 総武線の沿線に幅50メートルほどの防火帯を建設するため、疎開で空き家になった建物を取り壊していました。建物疎開と呼ばれ、強制的に人の家を壊す作業です。それを生徒にやらせていたというのも異常な戦時下を象徴する施策の一つと言えます。
鶴木 荒川をはさんで東側の小岩は東京大空襲の直撃を免れ、中山さん一家に被害はなかったのですが、西の空が真っ赤に燃え上がった翌朝、まちが焼け野原になり、多くの遺体が川に浮かんでいる惨状を目の当たりにしました。東京は危険だとして母の出身地の富山市へ疎開するのです。富山に来たのは3月末。中山さんは旧制富山中学4年に編入しました。
木村 親類を頼ってきた縁故疎開ですね。父を亡くし、一家は母と妹2人との4人家族でした。しかし必ずしも温かく迎え入れられたわけではなく、肩身の狭い思いで住居を転々とします。
鶴木 富山でもやはり生徒は学徒動員で不二越か岩瀬の富山港に通いました。中山さんは毎日、富山港で積み荷の上げ下ろしに従事しました。かなりハードな仕事だったようです。
木村 そして8月2日未明の空襲に遭遇するのですが、このころは全国各地の地方都市が空襲されており、富山でも毎日のように警戒警報や空襲警報が発令されています。市民の間に、近々やられるといった風説は広まっていたのだと思います。
鶴木 富山大空襲を経験した人たちの証言には「妻や子どもを疎開させた」とか「荷物を農村部へ移した」といった話がかなり出てきます。
木村 米軍は7月31日に予告ビラを投下しました。そこに空襲を予告された都市の中に富山と高岡が挙げられていますが、すぐに警察が回収し、市民にはあまり見られていないようです。
鶴木 それでも、その内容は口コミでかなり広がっていたのでしょう。予告ビラがまかれた直後、県庁で幹部会議があり、空襲への対応策を協議したという証言もあります。もはや疎開しかないという意見も出たけれど、徹底抗戦の声に押され、実行されなかったということです。砂町は、町内会長の指示で最初の空襲警報が発令されるとともに全員逃げ出し、一人の死者も出さなかったと言われています。
木村 空襲があることを「知っていた人」「なんとなく知っていた人」「何も知らなかった人」の差が、そのまま被害の差につながった可能性はあります。
鶴木 中山さん一家は新聞もラジオもない、近所づきあいも疎遠な情報弱者でした。当日は何も知らないまま寝ていて焼夷弾攻撃に襲われたのです。
木村 一家の住んでいた泉町の住居はまる焼けになり、お母さんは1歳8か月の下の妹を抱きかかえたまま、近くの防空壕の中で亡くなっていました。中山さんと二つ違いの妹は、はぐれて外に逃げ出して助かりました。
鶴木 東京大空襲の惨状をよく知っていたお母さんは日ごろから、防空壕なんかに入ってはいけない、焼け焦げるだけだと話していたそうです。防空壕と言っても、多くは地面を少し掘った穴に土をかぶせたくらいのもので、本格的な爆撃に耐えられる構造ではなかったのです。深さ30センチ程度のものだったという証言もあります。危険なことはよくわかっているはずなのに、逃げ場を失って入ってしまったのでしょうか。
木村 中山さんは廃墟の中から母と幼い妹の遺体を探し出し、自ら火葬するという壮絶な体験をします。そして、残された中山さんの戦災孤児としての長くつらい日々が始まったのです。
▽八月二日 天まで焼けた
鶴木 戦災孤児の詳しい実態はよくわかっていません。戦後の混乱期、大人でさえ食べ物、着るもの、住むところがろくにないのに、親を失った孤児たちは悲惨だったと思います。
木村 中山さんは自身の被災体験を著書「八月二日 天まで焼けた」に記しています。同じ富山大空襲で家族を亡くした詩人の奥田史郎さんとの共著で、高校の生物教員だった1982年、52歳のときに出版しています。特徴的なのは、奥田さんの手記が主に被災したまでを描いているのに対して、中山さんは、被災した後の暮らし、戦災孤児としての遍歴をとても長く綴っていることです。高校生向けに書かれた本だからでしょうか、空襲で親を失った10代後半の多感な青年が、何を考え、どう行動したかを詳細に記しています。
鶴木 本のタイトルに強い思いが込められています。空襲は8月1日夜じゃなくて、2日未明なのだと。実際に空が焼けているのを見たのが2日だったという記憶を大切にしているからだと思います。天まで焼けた、は、避難していた田んぼのあぜ道で、近くのラミー紡績工場のタンクに火が入り、火柱が空に向かって突き上がっていく様子を感じ取ったままに表現したものです。
木村 富山中学を4年で卒業し、暮らしていくために必死で働き始めます。間借りした親戚で農作業を手伝った後、富山大学生物学教室の助手を務め、売薬で全国各地を行商して回り、国家公務員試験に合格して人事院に採用、と転々としますが、働きながらも一貫して「勉強したい」という強い気持ちを持ち続けていました。
鶴木 母と妹はなぜ命を奪われなければならなかったのか。なぜ人は戦争で殺されなければならないのか―。そういう問題を考えるために、生物学や哲学に関心を深めていきます。人間の命そのものについて、自然科学、人文科学の両面から考えようとしていたのではないでしょうか。
▽学徒動員、被災、防空壕、戦災孤児…
木村 人事院を1年足らずで辞めて大学を受験、合格して入学します。生物学を専攻して哲学の授業もすべて単位を取り、大学院に進みました。そして27歳で高校の生物教員になりました。空襲で家族を失って妹と2人で放り出され、落ち着いた暮らしができるようになるまでに12年の歳月がかかったということです。「八月二日 天まで焼けた」は、ここで終わります。
鶴木 感情を抑えた記述の行間から、とんでもない苦労や苦悩が伝わってきます。ずっと頭から離れなかった命に対する問いが、その後の空襲研究へとつながっていきました。
木村 学徒動員、建物疎開、縁故疎開、空襲の被災、防空壕、自らの手で火葬、戦災孤児の遍歴と、中山さんのたどった足跡そのものが、戦争が招く悲劇と苦難を物語る貴重な歴史の記録と言えます。
鶴木 中山さんの戦中戦後の記録は、正確な事実に体験が重ねられており、とてもリアルで史料としての価値も高い証言です。直接、話を聞くことができたことは私たちにとって本当に幸運なことでした。


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