根深いライバル意識
戦時中の昭和18(1943)年1月22日、北日本新聞に「富山・高岡の連繋 両市合併の企画」と題した投稿が載りました。筆者は高岡高商教授で法学者の高田源清で、富山市と高岡市が各種の問題につき競争的、闘争的であるとして「相互に妨害的態度さへ見えることは富山県のために、また戦ふ日本国家のために断じて許されないところである。私は今こそ両市が相互援助的に相擁して所謂夫婦都市としての実をあげ、遂には両市合併の実現へと着々計画を進めるべき」と富山市と高岡市の合併を提唱しました。すぐにでも都市計画の単一化を進めたうえで、放生津潟の一大港湾化や小杉、呉羽での新住宅地帯建設、高岡・富山間の鉄道複線化、延長、引込線の建設、貨物列車の編成などを進めるべきと具体的に提案しました。戦時下でさえ両市の対立が解消できないことに危機感を抱き、思い切った解消策として両市合併案を唱えたのです。
富山と高岡の対立―。富山県は、薬都としての歴史を持つ県庁所在地の富山市と、加賀藩政期から経済の中心だった商都・高岡市の二極構造をベースにしてきました。両市のライバル意識は根強く、補助金の配分や施設配置、イベントの会場などで東西バランスを図ることは、歴代知事が県政運営上、常に意識せざるを得ないデリケートなテーマとして内在してきました。富山県政に多大な影響を与えてきた富山・高岡の対立を振り返ります。
▽競争意識は市制発足時から
明治22(1889)年、地方自治制度として初めて市制が施行された全国37都市に富山と高岡が含まれました。県庁所在地でさえ一つも選ばれていない府県がある中で、富山県には市が二つ誕生したのです。高岡は、全国の城下町や開港場などが選定される中で、いずれにも該当しない例外として注目されました。
初の市制都市に選ばれたことは、高岡市民の大きな誇りでした。選定理由として「高岡市史」は、幕末時点で加賀藩の商都として2万人以上の人口を持つ全国有数の経済都市であったことと合わせ、富山市との競争意識があったことを挙げています。百万石領随一の商都としてのプライドを持つ高岡町民は富山に一歩も譲るまいと競い合い、富山市が市制を敷くなら高岡も市にしないことには町民感情がおさまらなかった、としています。
市制の基準が人口3万人以上と定められたと知ると、3万人には少し足りなかった高岡の関係者があわてて上京して当局に要請し、人口基準を2万5000人に引き下げたといった逸話も伝えられています。
▽「商業の事に至りては高岡に任じ」
明治26年、高岡の有力財界人30人が、コメや綿など物品の市場取引を行う「高岡商品取引所」の開設許可を求めて内申書を提出しました。この中で、越中五郡が一致して石川県から分離独立する運動を起こした際に「あらかじめ将来の企図を定め置く」として「富山市には県庁を置き永く県治総括の地となすべし。商業の事に至りては高岡市これに任じ地方の発達を計るべき事を約せり」といういきさつがあったことを記しています。
石川県から富山県の独立運動をした時点で、関係者の間では富山市は県庁所在地、高岡市は商業の中心地と役割分担する紳士協定が結ばれたと主張しているのです。高岡商人たちが、富山県が誕生した時からすでに富山市、高岡市の二極構造とすることを求めていたことがうかがえます。
こうした高岡側の競争意識に対抗して富山側も鋭く反応し、事あるごとに両市は衝突することになります。
▽日満産業博の開催地めぐって対立
富山・高岡の東西対立の象徴的な事例に、昭和11(1936)年に富山市で開かれた日満産業大博覧会があります。会場をめぐって両市の引き合いが演じられました。
日満産業博は、富山県の産業、観光を全国にアピールすることと合わせ、7年に中国大陸に建設された「満州国」に夢を求め、対岸貿易の促進で不況からの脱却を目指す狙いで企画されました。8年5月、富山商工会議所は、高山線の全線開通で太平洋側と日本海側が連結し、対岸の大陸・満州国までつながること、富山市の富岩運河掘削と神通川廃川地処分が完成したことを挙げ、富山市での博覧会開催を求める意見書を知事に提出しました。
一方、高岡市は「高山線開通を記念する富山市の博覧会に日満の名を冠するのは妥当でない。日満博の名によるならば高岡・伏木を中心とすべきである」と主張し、県が会場を富山市に内定すると大いに憤り、日満博への出品を拒否、協賛にも応じない強硬姿勢に出ます。呉西の複数の町村も同調して富山市開催反対の声を上げ、問題が大きく広がりました。さらに高岡市は市主催で単独の日満博を富山市に先立って開く計画を決議しました。
富山市長が再三、高岡を訪れて理解を求めますが、高岡側は一歩も譲らず、暗礁に乗り上げます。斎藤樹知事が調停に乗り出し、当時「高岡の三長老」と呼ばれていた政財界の大御所である木津太郎平、菅野伝右衛門、荒井建三の3人が折衝に臨み、数回にわたる協議の末、高岡は富山市での博覧会開催を受け入れ、協力することを受け入れました。
9年4月に斎藤知事と早苗西蔵高岡市長が交わした覚書は以下の通りです。
・高岡市は昭和10年度における日満産業博覧会単独開催の計画を取りやめ、富山市主催日満産業博覧会に参加し、挙県一致の誠意をもってその成功を援助する事。
・高岡市都市計画、伏木第三期拡築、小矢部川改修等相当進捗し、同地方の施設面目一新の時期を見計らい、高岡市に日満産業博覧会開催の実現方を県において考慮する事。その高岡市開催の場合においては、県はこれに対し、昭和10年度富山市主催日満産業博覧会に対する助成に譲らざる程度の助成をなす事。
高岡が引き下がる条件として、次は高岡市で産業博覧会を開くことを考慮し、富山市と同規模の助成をすると県が約束したのです。
富山市を会場に開かれた日満博は、55日間の会期中に80万人の富山県人口を大きく上回る91万人以上の来場がありました。しかし日満博開催の1カ月余り前には二・二六事件が起こっており、翌12年には日中戦争に突入していきます。その後終戦まで、富山県で博覧会が開かれることはありませんでした。
▽戦後の博覧会は、まず高岡から
終戦を経て昭和20年代半ばには、全国各地で戦後復興を願う大型イベントとして博覧会が始まりました。富山県ではいち早く昭和23年に富山、高岡両市を会場とした県主催の産業復興博覧会の構想が浮上します。25年の開催を目指して県庁に懇談会が設けられ、原案がまとめられました。しかし中心部を空襲で破壊された富山市はまだ復興が十分に進んでおらず、準備が間に合わないとして開催を見送りました。そこで高岡を会場にした産業博計画が浮上します。
戦前の日満博の際の「次は高岡」の約束が現実になったのです。
▽3年後には富山で産業博
高岡産業博は昭和26年4月5日から50日間、高岡古城公園を会場に開かれました。電源館、電気科学館など30あまりのパビリオンが設けられ、この年の博覧会は全国で高岡だけという物珍しさも加わって62万人あまりの来場でにぎわいました。この3年後、29年4月には富山市中心部で富山産業大博覧会が開かれます。戦災の焼け野原からの復興をアピールし、開催に合わせて完成した富山城天守閣や2300人収容の市公会堂、市庁舎を主会場に出展パビリオンは26館、出品数は30万点に及び、55日間で高岡博を上回る約70万人が来場しました。
富山、高岡両市が対抗心を燃やして誘致に取り組んだ結果、ビッグイベントの産業博は、戦争をはさんで富山、高岡、富山と交互に開催されたことになります。

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