富山県の翼賛選挙(上)

政府・軍部が露骨に干渉

 太平洋戦争の戦時中の昭和17(1942)年4月に行われた総選挙は翼賛選挙と呼ばれ、国家総動員体制を目指す軍主導の政府が、候補選考から選挙運動まで露骨に干渉しました。東条英機内閣が、前年12月8日のハワイ真珠湾への奇襲攻撃の戦果に国民が歓喜するタイミングをとらえて行った選挙でした。

■推薦6人、非推薦11人

  政党はすでに解散し、大政翼賛会に集約されていました。政府の指示を受けた翼賛政治体制協議会(翼協)が全国の都道府県に支部を設け、立候補者の推薦を進めました。推薦候補に議員定数と同数の466人の名が挙がります。推薦候補には、当時の選挙資金の半額に相当する1人5000円が支給されるなどあらゆる便宜が与えられ、非推薦議員は様々な妨害を受けるという異常な選挙だったのです。

富山県でも定数3の1区、2区に定数通りの3人ずつ、計6人の推薦議員が立候補しました。1区は赤間徳寿、井村荒喜、中川寛治、2区は卯尾田毅太郎、大石斎治、松村謙三です。このうち現職の衆院議員だったのは松村と卯尾田だけで、4人はこの選挙のために推薦された新人でした。非推薦候補も1区6人、2区5人の計11人が立候補して選挙戦が始まりました。

■非推薦で挑んだ石坂豊一

 中央政界では、軍部の強い圧力にさらされる中、鳩山一郎など大政翼賛会に反旗を翻した国会議員たち37人が、昭和16年11月に衆院の院内会派「同交会」を結成します。このうちの一人に富山県の衆院議員、石坂豊一が加わっていました。

石坂は明治7(1874)年、滑川市大崎野に生まれました。神戸税関職員、県庁職員などを経て大正9年5月の衆院選に、原敬総裁の要請を受けて立憲政友会から立候補しましたが落選します。その後13年5月に初当選を果たして以来、当落を繰り返しながら翼賛選挙時は5回当選、67歳の現職でした。昭和7年、斎藤実内閣の鳩山一郎文部大臣のもとで文部参与官に就任して以来、鳩山との親交を深めました。

同交会は鳩山と尾崎行雄を筆頭に安藤正純、芦田均、大野伴睦ら政友会の有志を中心として、民政党や社会大衆党からも党横断的に参加者が集まりました。翼協の候補者推薦は違憲行為だと主張し、明らかな反対の意思を示します。政府、軍部の批判は当時、危険視されるうえに選挙での落選の不安にさらされ、時にはテロによる命の危険さえ覚悟しなければならない勇気ある行動でした。石坂ら同交会の面々は、立候補したそれぞれの選挙区で厳しい干渉を受けることになります。

■選挙参謀を刺客に送り込む

 内務省・警察は立候補が予想される現職、新人の調査を行い、候補選考から介入しました。当時の「衆議院議員調査票」によると、富山1区現職の高見之通は「乙」として「積極的活動ナキモ時局ニ順応、国策ヲ支持シ反政府的言動ナキ人物ト認メラルル者」とされ、石坂豊一と野村嘉六は「丙」で「時局認識薄ク徒ラニ旧態ヲ墨守シ常ニ反国策的・反政府的言動ヲナシ又ハ思想的ニ代議士トシテ不適当ナル人物ト認メラルル者」と採点され、3人とも推薦から外されました。

特に同交会メンバーの石坂に対する選挙干渉はし烈でした。政府が富山県知事の町村金五に指令して推薦議員として赤間徳寿を富山1区に立候補させたのです。赤間は石坂の甥(姉の子)にあたり、「赤間は僕の選挙参謀長として8回も選挙に関係しており、ある時は違反に連座したこともあり、僕とは親子同様の仲」(石坂の証言)でした。明らかな嫌がらせで、選挙を妨害したのです。

赤間は戦後、北日本新聞の取材に答え、やむなく出馬した経過を明かしています。

「石坂豊一さんの立候をはばむためだったんでしょう。極力固辞したが、おされて出馬することにした。県の大先輩であり、枢密顧問だった南弘さんに相談にいくと〝近親の石坂さんとけんかしてはいけない。ほんとうにでる意思があるのか〟とたずねられた。私が〝ない〟と答えると〝やめたらよい〟というわけで、渋谷の駅前で電報をうち、かえってきた。しかし、かつがれてとうとうでることになってしまった」

■推薦候補「金岡さんと相談して決めた」

 推薦候補はどのように決まったのでしょうか。自分が選考に関与したとする証言があります。県内農業界の実力者で、戦前の県町村会長や県議会議長を歴任した森丘正唯が、戦後の北日本新聞に、推薦候補の選定をアドバイスしたのは自分だと述べているのです。記事を引用します。

「金岡又左衛門氏が阿部信行(元総理大臣で翼協の会長)から呼ばれて富山県の翼賛議員候補決定を依頼されてきた。ところが金岡さんが政党内部のことをよく知らないので町村知事に相談したところ、それなら森丘がよかろうということになったらしい。そこで金岡さんから電話があって相談を受けた」

「金岡さんと相談して決めた人は、第1区で中川寛治、赤間徳寿、佐伯宗義の3氏であった。ところが佐伯さんがいやだといって福島県へ逃げたので金岡さんと二人で不二越社長の井村荒喜氏を無理におしてしまったのだ」

「このように人選をしたのだが、私はあくまでかげ武者であった。というのは、私は米の統制違反で無罪になった直後であったので、翼賛会には直接関係していなかったからである」

この記事によると森丘は、富山商工会議所会頭で大政翼賛会富山県支部の幹部だった金岡と相談して推薦候補を人選したということです。佐伯宗義は後の富山地方鉄道社長で、戦後の富山1区選出の衆院議員になります。

佐伯は自伝の中でこの時の出馬辞退について「翼賛選挙に推薦された折、翼賛とは、主人公である天皇を国民が助太刀する観念であるから、天皇に累を及ぼすものであって、国民の責任逃れであるとして断った」としています。

■特高の監視を受ける

 選挙運動にも干渉は続きます。石坂は選挙期間中、特高(特別高等警察)の監視を受け続けて運動らしい運動ができず、選挙事務所の事務員を集めることもできませんでした。「いよいよやってみると、翼賛青年団という若いやつらが、あんな非国民のところの事務員になってはいかんと、その事務員の家に行ってやめさせる。朝事務所に行ってみると誰も来ておらん」などと戦後に行われた対談で述懐しています。

石坂の支持者だった滑川市の魚躬常次郎は「石坂さんをはじめ平山、中村、私の4人は富山署より特高が12日間、朝夜となく交代で私宅、事務所を監視しているので全く動きがとれない状態となった」(「石坂豊一先生を偲んで」)としています。

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