Ⅰ-8、労働組合と2・1ゼネスト

直前にGHQが中止命令

 GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が打ち出した占領政策の一つに、労働組合の奨励があります。戦前に弾圧を受けていた労働運動が息を吹き返し、戦前のリーダーを中心に、労組の結成が動き出しました。戦後直後は、軍需工場が生産を停止し、復員や大陸からの引き揚げ者なども加わって失業者が増大していました。県は昭和21(1946)年8月末で失業者が約4万人、このほかにも潜在的失業者が2万人余りと推定していました。雇用の確保が大きな課題でした。

20年10月、富山県内で最初の労働争議は、立山重工業で起こりました。終戦による事業の縮小で従業員1099人の4割にあたる477人に解雇を通告しましたが、従業員の矢後嘉蔵らが組織した従業員団体が会社と交渉し、会社側から大幅に譲歩した回答を引き出しました。矢後は新憲法施行後初の衆院選富山1区に社会党から出馬し、当選しています。

立山重工の勝利を機に、県内の主要企業で労働組合が結成されていきます。労働組合法、労働関係調整法、労働基準法などの労働関係法が整い、21年末には県内に125の労働組合が設立され、組合員数は4万7000人余りとなりました。県内の主要な労組が結集し、21年4月に富山県労働組合協議会(県労協)が結成されました。5月1日には10年ぶりに労働者の祭典・メーデーが復活し、県内4会場に約4万1000人が参加しました。労働運動は大きく盛り上がっていきました。

全国レベルでは21年8月に日本労働組合総同盟(総同盟)、全日本産業別労働組合会議(産別)が発足し、各地で労働争議が頻発します。官公庁の労組が主導し、吉田茂内閣打倒を目指す空前の規模の全国一斉ストライキの実現へと向かっていきました。22年1月、吉田首相が年頭の辞で労働組合を「不逞の輩(ふていのやから)」と呼んだことで反吉田運動は一層激しさを増し、県内の各労組も共闘体制を敷きました。官公労働者を中心としたゼネラルストライキは2月1日に計画され「2・1ゼネスト」と呼ばれます。

しかし前日の1月31日、GHQが声明を発表し、ゼネストは中止されました。全官公庁共闘委議長で国鉄労組の伊井弥四郎が、NHKラジオを通じてストの解除指令を行い「最後に私は、声を大にして日本の労働者、農民のバンザイを叫びたいと思います。一歩後退 二歩前進」と涙ながらに語りました。伊井は水橋町出身です。

この時の厚生大臣は福光町出身の河合良成で、政府の代表として労働者にゼネストを見送るよう呼びかけるために訪れたNHKで、旧知の伊井と同席して中止を知りました。こうして史上最大の労働争議は目前で取りやめになり、労働者の味方だと信じていたGHQへの期待は、労組幹部の間で急速にしぼみました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました