県独自の農本党も旗揚げ
昭和20(1945)年11月に各政党が次々に結成大会を開いた全国の流れと呼応し、富山県内でも年末にかけて社会党、共産党と保守系の自由党、進歩党の支部が相次ぎ発足しました。県農業会(後の農業協同組合)を中心とした富山県独自の政党、農本党も結成されています。農本党は日本協同党と連携し、県内にも国政レベルと同じ5つの政党勢力が形成されました。
政党支部の立ち上げに関わった人たちが、戦後県政の中心的な担い手を務めます。その顔触れは、戦前からの政治家や政治活動家、官僚などが多くを占めました。
▽社会党県本部
富山県で政党支部の結成に最も早く動いたのは、中央政界と同様、戦前に無産政党と呼ばれた社会主義政党の指導者たちでした。敗戦から2か月あまりの20年10月14日、高岡市商工経済会支部で無産政党結成懇談会があり、発起人は矢後嘉蔵、古川浩太郎、上島仁三郎、中島安太郎、増山直太郎の5人が名を連ねています。準備委員に指名した22人の中には岩林虎之助、松島治重ら共産党のメンバーも入っていました。
11月25日には富山市東岩瀬町の正源寺で社会党県支部の結成大会が開かれ、農民運動出身の矢後会長―増山書記長体制が発足します。空襲で被災した富山市中心部には会合を開く場所がなく、会合や大会の会場は高岡市や郡部が中心でした。運動方針として、国営による土地改良、肥料対策の立案、食糧営団の民主的改組、公正な供出制度の確立、飯米の増配などを決めました。戦後の食糧難、物資不足の世相を色濃く反映していました。
一方、矢後、増山のグループとは別に藤野久光、山本松次郎らも社会党の新しい県支部連合を名乗り、発足時から左右両派の内部対立を抱えていました。やがて両派は党本部の仲介で一本化されていきます。
▽共産党富山地方委員会
日本共産党の富山県委員会ができたのは昭和初期ですが、戦時中の相次ぐ弾圧で壊滅状態でした。社会党のメンバーとともに無産政党結成懇談会に参加した共産党の指導者たちは、その1週間後に開かれた治安維持法犠牲者慰労会に結集します。党中央は徳田救一、志賀義雄らが公然と党活動を再開し、11月8日には県関係者の入党が認められました。
県内党員は岩林虎之助、山崎友則、松井千冬、巴陵宣正のほか、新たに松島治重、松島森、佐伯源吾、近藤直吉が加わりました。松島治重はのちに党常任幹部会員になります。
12月16日、再建された地方委員会の初会合がありました。社会党県支部と共同で県労働組合準備会をつくり、県内の工場や会社での労働組合の組織化を進めます。県組織は昭和40年代まで富山地方委員会と名乗りました。
▽農本党
県農業会を母体として農民層を結集した富山県独自の政党・農本党が旗揚げし、結成大会が20年12月16日に小杉農学校(現在の小杉高校)講堂で開かれました。戦争で疲弊した農地を回復し、食糧増産を目指して農業者の団結を呼びかける政党として、党名は会場の講堂に掲げられていた「農為国本」(農をもって国の本となす)の額から名付けられたとされます。戦後第1回の総選挙や県議選で大勝するなど、戦後直後の県政界で一大勢力を誇りました。
結成大会には農業団体の役員クラス200人余りが集まり、党首の理事長には元県農業会副会長の森丘正唯、幹事長には後に参院議員になる小川久義が選ばれました。理事は稲田健治、高原耕造、綿正秋ら13人で、顧問には松村謙三、島田七郎右衛門が名を連ねています。この日決まった綱領や政策は、農業立国を重視する一方で、国体護持、天皇制の絶対護持を挙げており、報徳運動などの戦前の感覚を引きずっていました。
既存の政党とのつながりを持たない独自の地方政党として県内に農本党が成立し、大きな勢力を得た背景として、戦後の危機的な食糧難の渦中で農業政策が喫緊の政治課題だったこと、戦前の保守勢力の中心だった農村の大地主層が地方政治の主導権を握っていたことなどが挙げられます。
しかし農本党の名称は長く残らず、所属議員たちは協同党に入党したり、協同党や民主党との二枚看板を名乗ったりして、昭和20年代の半ばには姿を消しました。
▽日本自由党
自由党、進歩党の2大保守政党も、それぞれ県支部を結成します。自由党は戦前の衆院議員で富山市長を務めていた石坂豊一、進歩党は衆院議員で幣原内閣の農林大臣を務めていた松村謙三が中心でした。
鳩山一郎と関係の深かった石坂が呼び掛けた日本自由党県支部の結成大会は12月20日に富山市東岩瀬の願了寺で開かれています。支部長は石坂、幹事長には後の衆院議員、内藤隆が就き、筆頭総務に簑島宗平、常任総務には橋爪竹次郎、飯倉平兵衛、金尾義信、綿貫佐民が選ばれ、党本部からは後に衆院議員になる松岡松平が参加したといいます。戦災復興計画の促進、食料及び燃料の配給、政治教育、公民教育の徹底、知事公選制の実施などを満場一致で可決しました。
▽日本進歩党
自由党県支部が発足して1週間後の12月26日、大日本政治会の流れをくむ日本進歩党の県支部結成大会が富山市の電気ビルで開かれました。農林大臣の松村が供米状況視察のため来県し、大会に出席しています。氷見出身の衆院議員、大石斎治が座長を務め、支部長に松村謙三、幹事長には県議会議長の武部毅吉を選びました。衆院議員の赤間徳寿が議会報告をするなど、戦前からの主だった政治家が顔を並べ、翌21年4月の総選挙に6人の公認候補を擁立する方針を決めました。
しかしその矢先の21年1月、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は戦前の流れをくむ軍人や政治家、教育者らの公職追放を命じます。松村は第一次追放リストに名が挙がり、進歩党県支部長でありながら次の総選挙に出馬できませんでした。
翌22年3月末、日本進歩党は芦田均を総裁に迎え、日本民主党に替わります。県内からは河合良成、橘直治、佐藤久雄が参加しており、河合は最高総務委員に就きました。民主党県支部長は橘直治、副支部長には八尾菊次郎が就きました。
各党富山県支部の結成日は以下の通りです。
昭和20年
11月25日/日本社会党県支部
12月16日/日本共産党地方委員会
12月16日/農本党
12月20日/日本自由党県支部
12月26日/日本進歩党県支部


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