東京で鎮圧に出動、政府批判の弁舌
全国規模の暴動となった米騒動には、東京にいた富山県人たちがそれぞれの立場で関わりました。警視庁の正力松太郎と、院外団で政治活動をしていた土倉宗明です。
▽治安維持に暴動鎮圧/警視・正力松太郎
全国に波及した米騒動の暴動を治安維持のため鎮圧し、手腕を発揮したのが警視庁警視監察官だった大門町(現在の射水市)出身の正力松太郎です。8月13日夜に都内で鎮圧に出動した経緯を自伝に記しています。
日比谷に集まった群衆1万人が気勢を上げている、と鎮圧を依頼された正力は巡査を引き連れて現場に急行しました。当時の巡査は刀を所持していましたが、正力は部下の刀が抜けぬようにしばらせたうえで自ら先頭に立って群衆の真ん中に飛び込んでいきます。
「私は当時まだ33、4で鼻息の荒い時分であり柔道にも剣道にも自信があった。群衆を突き飛ばし、ものすごい勢いで音楽堂に駆け上がり、幹部を突き落とし、あるいは検束してしまった。煽動者が検挙されたので群衆は呆気にとられて静まり返ってしまい、みるみる退散していった」
本庁に戻ると今度は暴徒が蛎殻町通りの米穀取引所を襲ったという情報が入ります。駆けつけると街灯が破壊され、充満した群衆が薄闇に乗じて店頭の窓口やガラス戸に盛んに投石していました。現場の警察署長は取り締まりは無理だと言いましたが、正力は巡査5人を連れて現場に乗り込みました。群衆はかえって激昂し、砂利や小石を投げつけてきて、かなり大きい石が頭に当たりました。
「じっとにらんでいると不思議に群衆が静かになった。中の一人がハンカチを出して「大変なけがをしておられますよ。すぐ病院にいかなければ」と言った。それで初めて頭から顔や首筋に血が垂れているのに気付いた。真夏のことだから白服だ。そこへ血が流れている。アーク灯の下であるから顔は真っ蒼に見える。血だらけの私の姿を見ると、気の毒だという感じがしてきたものらしい」
このけがで頭を二針縫ったといいます。のちに読売新聞社長、戦後は衆院議員になる正力にとって、米騒動の鎮圧は警察官僚としての武勇伝の一幕でした。
▽政府批判し身柄拘束/院外団の土倉宗明
旧中田町(現在の高岡市)出身で政治家を志して上京し、政友会の院外団で活動していた土倉宗明は、政府を批判する弁舌をふるい、警官に身柄を拘束されました。当時31歳でした。米騒動に合わせて開かれた東京麻布の時局突破講演会で、弁士に立った土倉は、政府の無策を指摘してコメ高騰の即効策を絶叫しました。制止しようとする警官と争いになって拘束され、禁固1か月を言い渡されます。
「このころはまだ言論の自由などなく、係官が独断で言論に干渉する。相手が権力を持ってこれを封じようとすることに我慢ができない私は、身を犠牲にしても斗うよりほかに手段はなかった」と自伝「政界五十年」で振り返っています。土倉は昭和5年の総選挙に富山2区から出馬し初当選しました。戦後も含め、総選挙で6回当選しました。
米騒動は、民主的な改革を目指す大正デモクラシーの広がる中で起こった初めての全国規模の大衆運動であり、納税額に関わらず選挙権を行使できる普通選挙権の獲得を目指す「普選運動」へとつながっていきました。25歳以上の男性全員に選挙権が与えられた普通選挙法は7年後の大正14年に成立しています。
のちに政界に飛び込んでいく5人の富山県人たちは、それぞれの立場で米騒動の混乱に直接触れ、底流の政治的な意味合いを肌感覚として受け取ったのではないでしょうか。


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