追放解除の松村が幹事長
昭和24(1949)年の総選挙で単独過半数を得た民自党の吉田茂は第3次の内閣を発足させ、27年総選挙まで3年8か月に及ぶ長期政権を築きます。この間、東西冷戦が激化して朝鮮戦争が勃発します。GHQ内部の闘争が繰り広げられた結果、徹底した民主化を押し進めた占領政策は、非共産化と経済復興重視へと大きく転換していきました。国内では合理化を目指した国鉄の大がかりな首切りを機に下山事件、三鷹事件、松川事件が相次ぎます。朝鮮戦争に合わせて後の自衛隊につながる警察予備隊が発足し、全面か単独かの論争の末に講和条約が調印され発効します。公職追放者が解除され、戦前の政治家たちが政界に復帰してきました。
25年6月、GHQは共産党中央委員の公職追放を指令し、続いてマスコミや民間企業の従業員、公務員の共産主義者を対象にしたレッド・パージを勧告します。泊町(現在の朝日町)出身の共産党参院議員、細川嘉六は26年に公職追放になりました。
もともと追放の対象にされていた旧日本帝国の指導者は段階的に追放が解除されます。富山県選出の衆院議員で追放されていた松村謙三は26年8月、鳩山一郎や河野一郎らとともに追放解除になりました。
追放解除組は、鳩山を中心とする旧自由党系、松村らの旧民政党系とも、それぞれ反吉田の動きを見せます。松村や大麻唯男ら旧民政党系は、国民民主党幹事長の三木武夫らに呼びかけて27年2月、衆院議員69人で新党の改進党を結成します。中心的な役割を演じた松村は中央常任委員会議長になり、翌年には幹事長に就きました。
寄り合い所帯の改進党の総裁は、空席でスタートしました。のちに、外交官出身で政府全権として降伏文書に署名した経歴を持つ重光葵が就任します。松村は著書「三代回顧録」で、改進党設立の経緯を記しています。
重光の総裁就任の経緯について「多少の難色を示した者もあったが、これを押し切って重光氏を総裁とすることに一致した」「いくらことばを尽くし熱心に説いても、重光氏はうんと言わないので、よく考えておいてくれ、と私は辞去したが、間もなく親書を寄せられ、万事おまかせするという承諾の意思がとどけられた」としています。
自身が幹事長を引き受けたことについては「重光氏はもちろん政党人としての経歴もなく、それにいたってことば数の少ない人で、ときには無愛想にさえ見えることがあった。すると私に幹事長をやれ、との懇望で、当時、私は肺炎で、国立東京第一病院に入院中であったが、その総裁選挙の最初の関係から、重光氏支持を誓った以上、病気中だからといっても、断り切れぬ義理もあり、それで幹事長の就任を承知したのだが、国会に出ても病後の衰弱で就任のあいさつ回りも苦しかったことを覚えている。とにかく総裁の補佐役として捨身で働いた」と明かしています。
吉田内閣の打倒を目指す改進党は、のちに鳩山支持グループと合同して民主党を結成し、鳩山政権樹立へと突き進んでいきます。
▽富山県支部を結成
国政の動きを受けて27年3月、改進党富山県支部の結成大会が開かれました。川崎秀二、千葉三郎、松村謙三らの国会議員が来賓で参加し、県関係では佐伯宗義、内藤友明の両代議士や富川保太郎富山市長らが出席しています。支部長に佐伯宗義、副支部長に内藤友明、佐藤久雄、幹事長に野上資良が選ばれました。
呼応して県議会の会派が再編されました。国民民主党10人に新緑クラブの大部分と協和クラブの一部が加入して17人で新会派の改進党を結成します。県議会の会派は自由党21、改進党17、親和倶楽部6、社会党2となり、第2会派の位置を占めました。29年12月に日本民主党に代わるまで改進党と名乗りました。

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