C 平成15(2003)年春の富山県議選で向井さんは7期目の当選を果たします。一方、翌16年5月に任期満了を迎える地元高岡市の佐藤孝志市長の動向が注目されていました。向井さんは支持する市議を集めて政策研究会を組織するなど、市長選出馬の足場固めに動き出します。
B 佐藤さんは9期36年続いた堀健治市政の後を継いで、大蔵省会計課長から昭和63(1988)年に初当選しています。4期務め、5期目にも意欲があったみたいですね。
C 一時は体調を崩しましたが回復しており、周囲に推されれば出たい意思はあったと思います。高岡選出県議、市議の相当数は、佐藤さんの続投を支持していました。
▽自治会や企業、団体の支持取り付け
C このころは砺波、南砺、射水、富山など富山県の各市町村が平成の合併に大きく動いていました。高岡市も周辺自治体に広域合併を呼びかけましたがそれぞれ難色を示され、福岡町との合併に可能性をつないでいました。総合斎場の建設問題が住民の反対で泥沼化しており、北陸新幹線の新高岡駅建設にも根強い反対論がくすぶっていました。人口減少や中心商店街の衰退傾向に歯止めがかからないなど、佐藤市政には課題が山積していたのが実情です。
A そこに、県議会の実力者だった向井さんが、市政の改革、高岡の再生を掲げて名乗りを挙げたのですね。
C 向井さんは自民党市議の半数に加え、公明党や民主党の議員も取り込んで支持基盤を広げていきます。党県連の役員として築いた野党との人脈もフルに活用したのでしょう。15年秋に正式に出馬を表明し、自治会や経済団体、各種の団体、グループから次々に推薦を取り付けていきました。
B 政治家としての向井さんの実力はみんなが認めていましたから、当初は、閉塞感を打破し、市政を改革するイメージが好感を持って受け止められたと思います。
▽綿貫さんから支援の感触得ていたが…
C 選挙まで半年あまりに迫った15年11月、佐藤さんは今期限りでの引退を表明します。ここまでは向井さんが仕掛けたシナリオ通りだったのでしょう。有力な後継者は出て来ないと踏んでいたのだと思います。しかし佐藤さんを支持していた県議、市議たちは結束し、1カ月後に橘慶一郎さんを擁立します。向井さんにとって大きな誤算でした。
A 橘さんの出馬はないと思っていたのですね。
C 向井さんは、自民党県連の最大の実力者で影響力を持つ綿貫民輔さんに市長選出馬の意向を伝えていました。どういうやり取りがあったのかわかりませんが、綿貫さんから支援を得たと受け止めていたようでした。綿貫さんがオーナーのトナミ運輸社長だった南義弘さんが高岡商工会議所の会頭でしたから、副会頭の橘さんが出馬することはないとみていたのだと思います。
B 出馬を要請された橘さんは、最初は難色を示しました。
C 大きな理由の一つは、父親の康太郎さんが現職の北信越比例選出の衆院議員だったことです。出馬に否定的だった橘さんが決断したのは、他ならぬ高岡商工会議所会頭の南さんに説得されたからでした。向井さんの期待とは裏腹に、南さんこそが橘さん擁立の立役者だったのです。
▽中立は許されない市内二分の激戦
A 橘家は直治さん、康太郎さんと代々国会議員を輩出している名門です。慶一郎さんは43歳、東大卒でオーナーでもある伏木海陸運送の社長でした。万葉線株式会社社長、高岡商工会議所副会頭、県経営者協会副会長も務める高岡経済界のホープで、若さや手あかのついていない清新さを前面に出したイメージ戦略を進めました。
B 佐藤さんが橘さんの支持を表明して佐藤市政の後継者の位置づけになりましたが、市政改革、刷新のイメージはむしろ向井さんから橘さんへ移りました。候補者本人が司令塔になって組織票を固める向井陣営、イメージ重視で無党派層の取り込みを狙った橘陣営と、選挙戦の手法は対照的でした。
A どちらも自民党で、知名度の高いベテラン政治家と若手経済人の一騎打ちだけに注目度も高く、選挙戦は激しかったですね。
C 市内は真っ二つに割れて、中立は許されないとげとげしい雰囲気でした。主だった経済人や団体のトップはどちらを支持するか色分けがはっきりしましたし、市役所の幹部クラスも次々に旗幟鮮明になっていきました。自治会によっては会長と副会長が対立して、どちらを推薦するか意見がまとまらないといったことも起こりました。まさに市内二分の歴史に残る激戦でした。
▽「51%の支持で判断」に賛否
C 市議の支持は両派にほぼ2分されましたが、高岡選出の県議6人は1人を除いて橘さん支持を表明しました。向井さんの同僚ともいえる県議がそろって反対に回ったことは象徴的でした。インタビュー記事で政治家の心構えについて「最後は51%の支持でぎりぎりの判断をするべき時もある」と話したことが話題になりました。都合よくごまかしたりせずに、すぱっと切り捨ててしまう強さに対する賛否両論がありました。
A 衆院選に小選挙区制が取り入れられた平成8年以降、有権者の意識も選挙の手法も大きく変わっていました。自民党同士で複数の議席を争っていた中選挙区のころ、選挙戦の中心は候補者個人の後援会でした。企業や団体がまとまった組織票を動かすことができた時代でしたから、いかに後援組織に取り込んでいくかを競い合っていたわけです。小選挙区制になって政党中心の選挙に変わり、組織や団体票もあてにならなくなりました。組織票を固めようとした向井さんの手法は、この時代ですでに限界があったのかもしれません。
B 投票の結果、1万票近い差をつけて橘さんが当選しました。予想以上に差が開いた印象でした。
A 最後は「勝ち馬に乗る」流れが一気に広がりました。両陣営とも60%台と読んでいた投票率が73%に達したことが得票差の要因でしょう。
C 向井さんは、開票する前の時点で負けを認めていました。投票率が上がれば、浮動票をつかみ、大票田をおさえていた橘さんに有利だとわかっていたからです。
▽民主党から郵政選挙にも出馬
A 高岡市長選に落選した後は衆院選に出馬しましたね。
C 平成17年9月の郵政選挙です。富山3区は綿貫さんが国民新党を結成して出馬し、自民党は萩山教厳さんを公認候補に立てました。自民党内は綿貫さんと萩山さんの支持に割れて大混乱でした。そこに向井さんが民主党から出たのです。
B 自民党がぐらついたので向井さんはチャンスと見たのでしょう。そこに、かねて慕っていた民主党の小沢一郎さんから声をかけられたのだと思います。小泉純一郎首相の郵政民営化が焦点で、国民新党・綿貫さんと自民党・萩山さんが正面からぶつかった富山3区も全国的に注目された選挙区の一つでした。向井さんは存在感を示せず落選しました。
C その後は政界から身を引いて大学に入学し、大学院に進んで心理学や防災などを学んでいました。地域社会から離れることなく、自治会活動や防災活動に携わっていたようです。
A 綿貫さん、中沖さん、河合さん、力示さんらとともに、向井さんは富山県政界の一時代を支えた中心人物の一人です。「有言実行」を公言する行動力があり、決断に責任を持つ政治家らしい政治家でした。一線を退いて20年以上経ってなお話題になる、こういう存在感のある人が少なくなったように感じます。
| 高岡市長選/平成16年5月23日 | |||
| 〇 | 橘慶一郎 | 55,137 | 無所属 |
| 向井英二 | 45,172 | 無所属 | |
| 衆院選富山3区/平成17年9月11日 | |||
| 〇 | 綿貫民輔 | 120,083 | 国民新党 |
| 比例 〇 | 萩山教厳 | 100,586 | 自由民主党 |
| 向井英二 | 47,735 | 民主党 | |
| 窪田正人 | 15,163 | 社会民主党 | |
| 坂本洋史 | 7,244 | 日本共産党 | |

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