戦後初の知事選

官僚トップが保守分裂選を制す

 昭和22(1947)年4月に行われた戦後初の富山県知事選で初代公選知事に選ばれたのは、戦前の官僚機構トップだった元内務次官の舘哲二でした。自由、進歩両党の候補調整が難航したうえ、結果は保守分裂選挙に突入しました。当選した舘は、半年あまりで公職追放により辞職に追い込まれ、その後は約1年半の知事空白期間が生じます。混乱の中の第1回知事選を振り返ります。

▽政界の重鎮VS官僚トップ

 戦後の新憲法、地方自治法で知事は官選から公選になり、県民が富山県行政のトップを選ぶ初めての選挙でした。県内の支部が発足したばかりの自由党、進歩党や社会党が候補擁立に動きます。

自由党は、戦前の総選挙で5回当選し富山市長も務めた党県支部長の石坂豊一(72)を候補に挙げました。進歩党が擁立したのは鳥取、石川県や東京府での知事経験がある元内務省の事務次官で同胞援護会副会長兼理事長の舘哲二(59)でした。石坂は滑川市出身で鳩山一郎ら中央政界に人脈を持つベテラン政治家。舘は、衆院議員や高岡市長を務めた木津太郎平の弟で、高岡市の名家出身の官僚機構トップ。県東西の代表という側面もあり、有力候補を擁する両党の対決に向かっていきました。

▽7時間に及ぶ一本化調整

 選挙間近になって保守候補一本化の機運が高まります。知事選が告示された翌日の3月16日、両党の代表が富山市総曲輪の東別院に集まり、一本化調整を行いました。昼過ぎから始まった話し合いは、自由党が一致して「石坂は5回も衆院選当選の経歴があり本県の事情にも明るい」と主張し、進歩党は「農本党や県教員組合は石坂なら推さないと言っている」との情報を得て「諸勢力とも連携する見地からも舘が最適任」と譲りませんでした。

最後は橘直治(進歩)、内藤隆(自由)ら幹部が別室で会談し、知事選候補は舘、石坂は参院選候補とすることで決着します。一本化に至るまで調整は7時間に及びました。「最後まで石坂豊一氏を知事候補に決定する空気がみなぎっていたが、どんづまりになって急転直下、両党の妥協成り、解決した」と北日本新聞が状況を報じています。(3月18日付)。

その後も舘は難色を示しましたが、周囲の必死の説得に応じ、締め切りぎりぎりの土壇場で立候補を届け出ました。

▽内務部長出馬で保守分裂

 自由、進歩両党の候補一本化はまとまったものの、すでに準備を進めていた県内務部長の加藤瀧二は立候補に踏み切り、保守勢力は分裂します。加藤は福井県出身の50歳。内務省、農林省の官僚を経て21年8月に富山県に着任していました。群馬県の知事候補にも名前が挙がりましたが、進歩党の一部から富山県知事選の出馬を求められて決意したようです。加藤にしてみれば、自由、進歩両党の候補一本化ではしごをはずされた形になりましたが、前年の衆院選で中田栄太郎をトップ当選させた教員組合、県職員組合のほか、農本党の一部や元衆院議員の高見之通、婦人運動のリーダーで平和建設婦人連盟の平岡初枝らの支持を獲得しており、選挙戦に臨みました。

社会党は教員出身で戦前の氷見町長を務めた党氷見郡支部長の大井義昌を擁立しました。社会党系の無所属、保科治朗も出馬し、革新票も分裂します。

計4人の選挙戦は「官僚か民間人か」「県人か他県人か」「保守か革新か」と関心を集めました。舘、加藤の支持が拮抗しているとして新聞紙上では決選投票も予想されていましたが、投票の結果は、舘が約17万8000票余りを得て、約12万票の加藤らを突き放して圧勝しました。投票率は78.09%に達しました。

落選後、加藤は埼玉県川越市に移住し、昭和40年に川越市長に当選しました。大井はこの知事選の20日後に行われた総選挙にも急きょ富山2区から社会党公認で出馬して落選。26年の氷見町長選に当選し、翌27年に市制施行された初代氷見市長に就任しました。

選挙後、加藤派の選挙違反が摘発され、教員組合の組織網を利用した大掛かりな買収容疑で、小中学校校長や県教組のメンバーが次々に検挙され、多くの教員が職を退いたことも特筆されます。86人が取り調べを受け、24人が有罪判決を受けました。

▽当選後7か月で公職追放

 知事に当選した舘は、官僚人脈を生かして、官選最後の大阪府知事を務めていた高岡市伏木出身の高辻武邦を副知事に迎えます。元東京府と大阪府の知事コンビで県政運営にあたる体制を組みました。さらに富山市出身で外務省関東局財務整理事務所長だった成田政次も部長職で招くよう言い残し、県庁人事の骨格を固めました。成田は教育部長として着任し、高辻県政で副知事を務めた後、吉田実との知事選に出馬することになります。

当選2か月後の6月末、舘は突然、公職追放を通知されました。内務次官や軍人援護会幹部の経歴が問われたのです。中央資格審査委員会に提訴しましたが認められず、知事として天皇の奉迎を終えた11月15日に辞任しました。在任わずか7か月でした。しかし、県政の混乱はこれだけで終わりませんでした。

知事の職務は副知事の高辻が代行しましたが、後任知事を選ぶ選挙が行われたのは23年11月です。それまでの間、約1年に及ぶ知事不在の空白期間が生じたのです。加藤派から知事選無効を主張する訴訟が起こされており、名古屋高裁が棄却したものの原告が最高裁に上告するなどして訴訟の決着に時間がかかったからでした。

候補調整の末の保守分裂選、就任間もない時点での公職追放、知事不在1年―。戦後の富山県政は大きな混乱の中で進んでいきます。

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