舘哲二と南原繁

人生を決めた同期の忠告

 富山県初代の公選知事を務めた舘哲二は、戦前の行政機構だった内務省の官僚出身です。舘が内務省に入ったきっかけは、大学の同期で後に東大総長になった政治哲学の第一人者、南原繁の忠告がきっかけでした。ともに内務省に籍を置き、政治と学問の世界に分かれた舘と南原の足跡をたどります。

▽高岡・木津家の二男

 舘は高岡市の名家、5代目木津太郎平の二男として明治22(1889)年8月に生まれました。兄の清太郎は6代目太郎平を襲名して高岡商工会議所会頭や衆議院議員、高岡市長を歴任し、当時は荒井健三、菅野伝右衛門とともに「高岡の3長老」と称された有力者でした。

二男の舘は旧制高岡中学を経て、東京の第一高等学校、東京帝大法学部とエリートコースをたどります。帝大卒業生の多くが国家官僚になっていく中、卒業後は自宅に帰り、親の遺産を守って悠々自適に暮らしていました。射水郡下村(現・射水市)の名医として知られた舘玄龍や龍を輩出した舘家に迎えられ、改姓しました。

大正6(1917)年、下村を管轄する射水郡長として大学同期の南原繁が内務省から赴任してきました。そこで2人は再会しました。

▽「学問をして遊び居る事の不可」

 内務省は、内政を司っていた戦前の中央行政機関で、警察行政と地方行政の人事権を握って強大な権限を持っていました。地方行政は当時、府県制と市制、町村制のほかに郡制を敷いており、郡役所や郡議会がありました。郡のトップ、郡長は内務省が任命し、小杉、新湊、伏木、大門の4町と29村の計33町村を管轄する射水郡の郡長に、内務省官僚で27歳の南原が赴任してきたのです。

下村の舘の自宅を訪ねて暮らしぶりを見た南原は「徒(いたずら)に学問をして遊び居る事の不可を忠告」します。せっかく学問を修めたのに世に生かさず遊んでいるとは何事か、ということです。地方行政官として社会の第一線に立つ同期の言葉に心動かされた舘は「断然それより勉学し、自ら二階に上りて高文の準備にとりかかり」ます。高文とは上級公務員を目指す文官高等試験のことで、受験してみごと合格しました。ここから舘の高級官僚、政治家へとつながる経歴が始まったのです。南原のひとことが舘の人生を決めたと言っても過言ではないでしょう。

南原が舘に忠告したことは、郷土史「萩の野之下邑」に記されています。

▽小杉高校の前身を創設

 舘と同い年の南原は香川県の出身で、東京帝大卒業後、内務省に入りました。射水郡長に在任した約2年間に、排水に悩まされていた射水平野の大規模な治水事業に着手したほか、郡立の農業公民学校の設立を手がけました。農業公民学校は、農業技術の習得とともに教養を持つ地域の人材育成を掲げる全国初の「公民」と名付けた学校として設立され、現在の小杉高校に引き継がれています。

郡内に婦女会(婦人会)を設立し、女性の啓もう活動にいち早く取り組んだことも特筆されます。のちに婦女会の射水郡会長として熱心に活動したのが高岡女学校の英語教師だった吉田久子です。久子の息子・実はのちの富山県知事です。

▽「曲学阿世の徒」

 南原は内務省を去った後、学問の道に進み、政治哲学者として戦後初の東大総長になります。昭和24(1949)年、講和条約の方針をめぐって全面講和と永世中立を主張し、ソ連や中国を含めない米国中心の講和を進めようとしていた首相の吉田茂の反感を買います。吉田は南原を「曲学阿世(きょくがくあせい)の徒」と呼んで批判しました。曲学阿世とは司馬遷の「史記」にある言葉で、学問を曲げて世におもねることを意味します。南原は学問を冒とくし、学者に強圧を与えるとして堂々と反論し、大きな論争になりました。

▽東京知事を経て内務次官

 官僚になった舘は、岐阜県警部を振り出しに内閣書記官、鳥取県、石川県、東京府知事を経て昭和13年に内務省トップの次官に登りつめました。退官後は、軍人の遺族や戦災者を支援する軍人援護会や同胞援護会の理事長を務めました。

戦後初めての知事選に当選し、公選の富山県知事第1号になります。知事に就いてからも県遺族会の会長を兼務しました。連合国の占領政策が大きな影響力を持っていた当時、占領軍の意向に配慮して、現職の知事が遺族会長に就くことを疑問視する声もありましたが、周囲の心配を意に介せず引き受け、亡くなる43年9月まで会長職を続けました。

知事就任後になって内務次官の経歴を問われた舘は、公職追放により7か月足らずで知事を辞任します。追放解除後の26年に参院議員に当選し、以来3期務めました。富山県社会福祉協議会長、消防協会長、自民党富山県連会長などを歴任しました。

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