松村農相が手掛けた農地改革

GHQに先立ち政府案まとめる

 戦後の民主改革の中でも特筆されるのは農地改革です。地主と小作農という農村特有の長年の慣習的な構造を抜本的にあらためました。当時の農地600万ヘクタールの3分の1を占める小作地が農民に解放され、耕作農民の95%が土地持ちの農家になりました。農相だった富山県選出の松村謙三が、この改革を手がけました。

 小作農とは自分の土地を持たずに地主から耕地を借りて耕作する農民のことで、小作料の多くは収穫するコメの半分を現物で納めていました。小作地に借地権は確立しておらず、地主は小作農に対して圧倒的に優位で、封建的な身分制に近い力関係を残しているケースが多かったのです。農地改革は、地主が所有する農地の一定面積以上を小作農に強制的に売り渡して自作農にする大改革で、農村の封建的な構造を打破することも大きな目的にしていました。改革の結果、地主に代わって自立した耕作農民が主役になり、農村の民主化、経済発展に結びつきました。

 戦後直後に成立した幣原喜重郎内閣で農林大臣に就任した松村は、自作農主義を政治信条としており、すぐに小作農の解放策に着手します。不在地主の所有地全部と、在村地主の所有する5ヘクタール以上の農地を希望する小作人に解放するという法案をまとめ、地主層をバックにする議員からの抵抗を受けながらも、昭和20(1945)年12月の帝国議会で成立にこぎつけました。在村地主に残される農地の面積が焦点になり、松村の当初の主張は1.5ヘクタールでしたが、最終的に5ヘクタールで妥協しました。政府が自主的に進めた改革で、第一次農地改革と呼ばれます。

 しかし、法案が成立して年が明けた21年1月4日、松村ら閣僚5人に突然、公職追放の指令が下されます。松村は農地改革への思いを残したまま、在任3か月足らずで農相を辞任しました。

 一方、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は日本政府が主導した一次案に満足せず、さらに徹底した改革を断行するよう政府に指示します。不在地主の所有する全小作地と、在村地主の保有する1ヘクタール以上の農地を国が強制買収し、小作人に売り渡すとする第二次農地改革案がまとまり21年9月、これに沿った法案が成立しました。

 農地解放の事務を進めるための農地委員会が県と市町村に設立され、委員が選挙で選ばれました。事務が具体化するにつれて地主の抵抗が強まり、土地の使用目的を変更したり、農地をヤミ売りしたり、小作農から土地を取り上げることなども起こりました。地主と小作の紛争が次々に農地委員会に持ち込まれました。

 25年3月までに、富山県では想定を上回る4万ヘクタール余りの農地が解放され、小作農約8万3500人が自作農に転じました。保有可能な1ヘクタールさえ全面開放した地主の協力があったからです。もともと富山県は小作率が高く、農地改革前の自作地と小作地の比率は46対54(全国平均54対46)でしたが、改革後は全国を上回る94対6(全国平均85対15)へ、一気に自作率が高まりました。

 農地改革で誕生した自作農の経営や生まれ変わった農村の発展を図ることを目的に22年11月、農業協同組合法が成立します。戦前からあった県内258の農業会が解散し、新たに262の農協が設立されたのです。農協は購買、金融、共済、農産品加工、医療、文化厚生事業など農業者の生活全般にわたる活動を行い、農村の中核的な存在になりました。

 農地改革は小作農を解放した反面、農地を手放すことを強制された地主側には大きな不満が残りました。旧地主たちが団体を結成して国に補償を求める運動が始まります。佐藤栄作政権の昭和40年に、農地を手放した旧地主に対して政府が補償金を給付する法案が成立しました。富山県では対象となる旧地主4万戸あまりのうち、請求者は51%にとどまりました。事務の煩雑さに比べて補償額が低かったことが原因とみられています。

 農地改革は、松村が手掛けた一次案は実施されることなく、GHQの勧告による二次案が実現されました。しかし、松村らの熱意と努力の末に、曲がりなりにも日本政府が自らの手で一次改革案をまとめることができたからこそ二次案が実行できたとみるべきでしょう。占領期の絶対権力を持つGHQの指示に先立って自発的に手掛けた改革であったことに、農地改革の大きな意義があります。

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