行政担当者、現場に居合わせた身として
大正7(1918)年7月、富山県東部の漁村の主婦らがコメの高騰に集団で起こした抗議行動が全国各地に広がりました。大規模な暴動に発展して内閣が総辞職に追い込まれることになった一大事件の米騒動には、のちに政治家として活躍する富山県人がさまざまな立場、場面で関係しています。行政担当者として、暴徒の鎮圧側として、コメ商店に居合わせた身として、政府批判の院外団として―。石坂豊一、河合良成、正力松太郎、鍛冶良作、土倉宗明らの米騒動との関わりを2回に分けて紹介します。
▽米価対策で外米買い付け/県勧業課長・石坂豊一
衆院議員を経て戦後は参院議員を務めた石坂豊一は、米騒動当時44歳で県の内務部勧業課長として農業政策を担当する県職員でした。知事の指示を受けて農水省と米価対策を交渉し、安い外国米を買い込んで配給します。自身の足跡をたどる座談会や対談で、石坂は米騒動のことを述懐しています。(対談「今昔」、座談会「70年前の郡役所」)
「このとき私は県の勧業課長をしていて、米穀検査所長を兼ねておった。8月7日に汽車に乗ったら三日市の駅で知事が乗り込んできた。」
「いやあ、君がどこに行ったか尋ねておった。今夜ご苦労だが官舎に来てくれ。急いでおる」と。何ですかといったら「東京に行って外米を買ってきて富山県にある内地米を出さなければ、大きな問題が起こっている」。それで知事の官舎に行って、翌日すぐ東京に出て外米1万石を入れて、そして富山にある米を1万石外に出す、そういうことをやった。」
「なにしろそのころは千円もあれば五、六人の家族で一年楽に食ってゆけたころで、米が1石(2.5俵、150キロ)十九円から二十三円五十銭まではね上がったのだから、住民たちの死活問題となったことは当然のことだろう。私はこのとき、県米を高く県外へ売り込み、値段の安い外米を買い込んで配給することに奔走したが、この時初めて外米が一般われわれの食膳にのぼったことになるわけだ」
▽米騒動で引責辞任/農商務省の官僚・河合良成
この時石坂が折衝した国の窓口は農商務省外米課で、福光町(現在の南砺市)出身の河合良成が課長を務めていました。米騒動の引き金となった米価高騰の対策を国の最前線で担っていたのです。河合は農商務省の官僚を経て戦後、貴族院議員や衆議院議員を歴任し、小松製作所(現在のコマツ)の社長に就きました。引き続き、石坂の回顧を引用します。
「ぼく(石坂)は外米を貰いに東京に出てきた。そのときの農林省の課長は河合良成氏、それからもう一人は立石、これも富山県の人だが、片山義勝氏は局長で外米を管理していたが、富山県のような米騒動の起きたところに外米などやれるかと、こうなんだ。」
「米騒動をやった者と、米を貰わなければならぬ者と、それは何も同じ者じゃないんだ。そういう理不尽なことをいうものじゃないといったら、河合君などは、君がそういっても局長が怒るのは無理がない。富山県から米騒動の元祖が出ているのは、われわれ県民としてあまりいい気持はしないと、私をおおいになだめるので、それじゃあんたにお任せするから早くやって貰わんならんと。それで送ってくれましたよ」
米騒動鎮圧のために各地で軍隊が出動する事態に至り、寺内内閣は総辞職に追い込まれました。河合も外米課長を引責辞任しています。
▽騒動の現場に居合わせる/大学生・鍛冶良作
戦後、富山1区選出の衆院議員となった鍛冶良作はこのころ明治大学の学生で、学費を援助してもらっていた滑川市のコメ問屋、金川商店で騒動に居合わせました。金川商店は米騒動で民衆が殺到した中心的な現場の一つです。自伝「四恩四知の道」に「越中米騒動の真相」と題して当時の様子を記しています。
「ちょうどその晩、私は金川商店に泊まっていた。夕方ごろから漁民を先頭にぞろぞろと集まってき、次第に不穏な形成となってきたので店の蔀(しとみ)を全部下した。蔀というのは格子の外に立てる板戸のことである。このため明かりが外に漏れなくなって真っ暗になったものだから、顔が見えないのをよいことに、ますます騒ぎが大きくなった。警官も相当きていたが、多勢に無勢で騒ぎを納めることが出来なかった。石が投げられ、体当たりもはじまった。
この儘では家が壊され、暴徒と化して乱入されては、それこそ大変な事態になると思われたので、私は店員たちに向かって「外に集まっているのは、みんなこの町の者か」と聞くと、「みんな町の者です」との返事。「それではお互いの顔が分るな」とたずねると「分ります」ということであった」
とっさに鍛冶は店の者に、電燈会社から電球を借りてきて取り付けるように言いつけます。周囲が明るくなって互いの顔が見えるようになれば、暴動が治まり、警官が取り押さえてくれると考えたからです。
「私は、明るい店の真中に、縮の着物に小倉の泥袴姿で仁王立ちとなって、群衆を睨みつけた。昼のような明るさで、みんなの顔が隅ずみまで見えた。顔を見られると騒ぐことが出来なくなるものだ。大きな棒を振りかざし、先頭に立って騒いでいた連中が一歩二歩と後ろへさがって、人混みの中に隠れてしまった」
明るくすれば興奮は静まるとみた鍛冶の機転は的中しました。その後、警官が群衆の中に入って帰宅するよう叫び、2時間後には騒ぎは収まりました。
▽赴任していて遭遇/射水郡長・南原繁
このほか富山県人ではありませんが、戦後に東大総長を務めた政治学者の南原繁がこの当時、内務省官僚の射水郡長として県内に赴任していました。南原は回顧録で米騒動に触れています。
「郡長になって2年目でしたね。発端は西水橋町というところ、下新川、中新川あたりが中心でした。郡役所に大衆がおしかけて中新川の井関という練達の部長が怪我をするという騒ぎだった。当然、私の郡にもくるだろう。そう思って覚悟していた」。射水郡に大きな騒ぎは起こらず、むしろ新湊から起こったコレラの対応に追われた、としています。
南原は在任中、小杉に農業公民学校を設立する道をつけました。農業を学ぶのと合わせて郷土のための指導的な人材を養成する理念を掲げ、全国で初めて公民と名付けた学校としたのです。現在の小杉高校の前身です。


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