Ⅰ-7、松村、河合の入閣

占領中の国政のかじ取り担う

 戦後混乱期の昭和20年代前半、富山県出身の松村謙三と河合良成が入閣し、国政のかじ取りを担いました。戦後直後の東久邇稔彦内閣が発足した昭和20(1945)年8月17日、松村は厚生大臣兼農林大臣で入閣しました。この時、松村は翼賛選挙で当選した国会議員で、大日本政治会の幹事長を務めていました。旧憲法下で組閣された東久邇内閣の閣僚は、内務相や陸相、海相など戦前と同じ名称のポストでした。

厚相の所管する厚生行政は、医薬品の欠乏や病院の維持など医療体制を立て直すことに加え、戦災地の住宅建設が急務でした。労働行政も担当しており、軍需工場で働いていた人々の賃金問題などを抱えていました。

▽農相で農地改革

東久邇内閣は50日の短命で総辞職し、後継の幣原喜重郎内閣が発足した10月9日、松村は農林大臣として引き続き入閣します。食糧の確保、農業の改革はこの時代の最重要課題の一つでした。松村は、幣原に説得されて入閣を承諾した際、農政のいっさいをまかせてもらうよう条件をつけています。

組閣後、記者団に抱負を問われ「例えば小作法のごときも廃止して、できるだけ自作農を創設する。農民の気分を和らげ農業の施策を尽くして、これから迎える食糧問題の難局を乗り切る覚悟で引き受けた」と農地改革への決意を述べました。

農相に就いた松村が進めたのは、地主が所有する農地の一定面積を強制的に小作人に分譲させ、小作農を自作農にする農地改革でした。占領軍の指示を受ける前に日本政府が独自に策定したプランで、第一次農地改革と呼ばれます。しかし21年1月、松村は公職追放に指定されて農相を辞任しました。

▽吉田内閣の厚相

 松村と同じ福光町(現在の南砺市)出身の河合良成は21年5月に、幣原の推薦を受けて、自由、進歩の2党連立で発足した第一次吉田茂内閣の厚生大臣として入閣しました。

河合の在任中は労働基準法、労働関係調整法が公布されて労働者の権利が確立する一方、大規模な労働争議やストライキが次々に起こり、その対応に追われました。電産ストや炭鉱のストのほか、22年2月1日には全国一斉ストライキ「2・1ゼネスト」が計画され、マッカーサーの命令で中止されました。 河合の厚相在籍は1年で、22年5月に公職追放となり、吉田内閣の総辞職とともに辞任しました。

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