「議場で堂々と論陣を張り、言論で勝負するのが政治家の使命」と石澤さんは語っています。県議会の論戦ではたびたび舌鋒鋭く県当局に迫りました。県議時代の思い出として特に強調しているのが、イタイイタイ病の対応をめぐる討論と、体罰に関する教育論争です。
▽言いにくいこともはっきりと
神通川上流の神岡鉱山から流されたカドミウムが原因のイタイイタイ病は、被害住民が三井金属工業を相手取って起こした訴訟で、富山地裁が1971(昭和46)年6月、全国初の公害病住民勝訴の判決を出しました。その直後の県議会で石澤さんは自民党を代表して討論に立ちます。石澤さんの主張は、三井金属に控訴の取り下げを申し入れて判決を確定させろ、県として三井に損害賠償を請求しろ、三井と公害防止協定を結べ―でした。
加害者の三井とともに、患者救済に消極的に見える県の姿勢を厳しく問う、踏み込んだ内容でした。言いにくいこともはっきりと物申す石澤さんの持ち味が発揮された場面です。社会党の主張にも近いこの発言に知事の中田幸吉さんは激しく反発し、討論後に自民党議員の控室に駆け込んできて「石澤を自民党から除名しろ」と迫ります。党内の自由系は知事に同調して懲罰を主張しますが、石澤さんが所属していた民主系は静観します。最後はおとがめなしに終わりました。高度成長のひずみとして公害が大きな社会問題になっていた時代が背景にありました。
▽質問学びに新人県議が来訪
富山県議会は69(昭和44)年から国会と同様の予算特別委員会を設けました。本会議場とは異なり、委員会室で県当局と向き合って県政全般にわたって一問一答のやり取りをする議員の腕の見せ所です。石澤さんは81年、82年と二度にわたり、予算特別委で体罰の是非をめぐる教育論争を挑みました。当時は生徒が教師に暴力をふるう校内暴力が問題化しており、教師の体罰を肯定した全国の事例を挙げて「尻をたたく程度の教育指導は、善悪のけじめをつけるためにむしろ必要ではないか」と主張しました。教育長は体罰の否定を譲りませんでしたが、持ち時間のほとんどを使って論争したことに、石澤さんは「やりがいを感じた」としています。
平成の時代になってからのこと。初当選したある県議が質問の仕方を学びに石澤さんのもとを訪ねてきたそうです。その県議は県議会で初めての質問をするにあたって相談した事務局の職員から、過去に論客で鳴らした県議として、石澤さんと下新川郡の笹島太一さんの名を挙げ、参考にするようアドバイスを受けたということでした。そんなエピソードをうれしそうに振り返りました。
▽小規模企業の振興へ法律つくる
政治家を引退した石澤さんは、地域の商工業者で構成する商工会のリーダーとして活動の舞台を移します。富山県商工会連合会の会長を経て78歳の2009(平成21)年に全国商工会連合会の会長に就きました。全国の中小零細事業者のトップに立った石澤さんが手がけたのが、小規模企業向けの施策を定める法律の制定でした。中小企業向けには「中小企業基本法」が定められていますが、日本の企業の9割近くは商業サービス業で従業員5人以下、製造業で20人以下の小規模な事業者です。従来の中小企業の法律の枠組みでは本当に施策が必要な小規模事業者に手が届かない、と新たな法律の制定を訴えました。
最初は与党の自民党も消極的でしたが、全国知事会の代表で会合に出席していた当時北海道知事の高橋はるみさん(現・参院議員)が法案に同調したのを機に、流れが変わりました。高橋さんは旧通産省の出身で産業政策に詳しいだけに、説得力があったのです。これに勢いを得て石澤さんは各方面の説得に回り、2014(平成26)年に「小規模企業振興基本法」の制定にこぎつけました。国が地域の小規模な事業者向けの施策に本腰を入れる仕組みができたのです。
▽日中友好、野球のリーダーとして
石澤さんは日中国交回復の架け橋となった松村謙三さんに師事し、富山県日中友好協会の会長を長く務めました。訪中は70回以上に及び、特に子供同士の交流に力を入れてきました。富山県軟式野球連盟会長にも就き、幅広い年代を対象に、野球の指導や普及発展に努めてきました。
県議、町長の地域密着の政治家であったのに加え、こうした県レベルのリーダーとして存在感を発揮しました。
2006(平成18)年に県議会議長や福岡町長を歴任した功労で旭日中綬章を受章しました。さらに2014(平成26)年には全国商工会連合会長としての功績で旭日重光章を受章しており、二度の叙勲の栄誉を受けています。
◆政治家、商工会長として富山県の地域社会のかじ取り役を担い、波乱に満ちた半生を綴った石澤義文氏回顧録「人生(たび)のあとさき」は北日本新聞社刊、1430円(税別)。富山県内の書店で扱っています。


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