事前合意、当日ひっくり返る
戦後初の選挙を経てメンバーを一新し、民主県政の理想のもとに踏み出した県議会は、昭和22(1947)年5月末の組織議会から活動が幕開けします。議会の最初の問題は、正副議長の選出でした。戦前からのベテラン議員がほとんど姿を消して新人ばかりに入れ替わり、定数44の会派は、農本党14、自由党10、中立・無所属でつくる五月倶楽部8,民主党7,社会党5と分かれており、複数の会派が提携しなければ過半数を確保できない構成になっていました。
このころの議会人事の動向を新聞記事をもとにひも解きます。
農本党、自由党、民主党の保守系3派は正副議長を1年交代で回すことでほぼ合意していました。ところが組織議会当日、合意はあっさり反故にされます。自由党が五月倶楽部との連携で多数派形成に動き、第1党の農本党は民主党と提携、さらに社会党とも手を結び、過半数の確保を図りました。議長を頂点とする議会ポストをめぐる会派間の権力闘争は、戦後初の組織議会から始まったのです。
過半数の26人を占めた農本、民主、社会の3派連合は、議長候補として県庁の課長出身で農本党の前田治吉を指名します。新人県議の多い中、県行政に精通しているとして前田が推薦されました。議員投票で自由党、五月倶楽部の推す候補を破り、前田が戦後初代議長に選ばれます。副議長選挙も3派の民主党・上野興仁が当選しました。
前田議長―上野副議長体制は2年続きましたが、私約交代の24年6月議会でも正副議長改選が波乱の展開をみせます。前回同様、農本、民主、社会の3派が提携して議長候補は民主党の古参議員だった八尾菊次郎に白羽の矢を立てました。
しかし今回も役員人事を決める議会最終日の前夜になって、自由党から改称した民自党と五月倶楽部が切り崩しにかかります。3派連合に手を突っ込んで農本党の高原耕三を議長候補に推すと本人も意欲を示し、情勢が一日で急変しました。各派乱れた折衝の結果、八尾が辞退し、保守系4派が高原議長で一本化し、社会党が締め出された形になりました。
3派連合で始まった議長選考は、保守4派の高原と社会党の対決という思いがけない事態となり、高原が戦後2代目の議長に選ばれます。副議長選は民自の広瀬重造に決まりました。
この議長選出劇で農本党は内部をかき回されて派内不一致の様相となり、議会の主導権は民自党に移っていきます。
26年の改選以降も人事をめぐる会派間の工作、対立が一層激しさを増し、正副議長は1年程度の短い期間で私約交代が行われていくことになります。


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